着手するまでの時間の話

私は思い立ったら着手するまでの時間が早い。相対的な話である。

私は最近、以前に比べてChatGPTを使う頻度がどんどん上がっている。ChatGPT4oを無料で使えるようになってその精度もぐぐーんと上がり、とても便利だ。特に気に入っているのは「趣味の電子工作でセンサーの使い方などを勉強するとき、本に掲載された課題を参照するとたくさんの部品を買い足さなくてはいけないので、逆に限られた手持ちの部品だけで済ませたい。ならば、手持ちの部品の型番を伝えてChatGPTに課題を作ってもらおう」というような使い方だ。配線図からPythonコードまでほぼ正確に答えも提示してくれる。

ところで、私はそんな風に楽しくChatGPTを使っているので夫も使ったらいいのになあと思っているのだが、夫はまずChatGPTの本を買ってじっくり読み(今年の正月頃)、その後、特にChatGPTを使っている気配もない。夫とChatGPTについておしゃべりしたいのになあと思っていたので「なぜChatGPTを使わないのか」と訊いたりしていた。

また、私は朗読本をいろいろと聴けるというオーディブルのサブスクに入って本を聴きまくっている。目が疲れるため読書量が落ちたのがきっかけだ。オーディブルは新しいタイトルの本もたいがい網羅されている。少し費用が高いが、これだけの豊富な本から選べるのであれば安いぐらいだ。家事をしながら聴くことも多いので、家事の苦痛も若干緩和された。

先日、夫がオーディブルについて私に訊いてきたので、その素晴らしさを諄々と説明した。また、無料お試し期間があることも伝え、是非体験して欲しいと伝えたのだが、その後特にオーディブルを活用している気配もない。両目を白内障手術した夫なので、私よりも目を使わずに読書ができるメリットは大きいのではと思ったのに残念である。「なぜオーディブルを使わないのか」と、またしても夫に尋ねたのであった。

長年一緒に暮らしてきて、そのあたりの夫と私のスタンスの違いをあまり言語化してこなかったのだが、改めて「かなり違うことだよなあ」と思った。

夫は何かを買うにしてもじっくりとカタログスペックを読み込んだりするが、私はさっさと人に訊いておススメをそのまま買ったりする。そういうところも全然違う。

どちらが良いということではない。私のほうが無駄が多い生き方ともいえる。夫は、趣味のクライミングでも、いきなりササっと登らずにいろいろな人がそのルートを登るのをじーっと見て一番無駄のない登り方を見極めてから一発で登ったりするのが好きというか、流儀なのだ。

そのあたりをあまり意識せずに生きてきたせいで、私はこれまで何回も夫に「なぜ〇〇を始めないのか」と訊いてきた。非難しているのではない。素朴に疑問だったのだ。そして私は検討する過程を楽しむという習慣があまりないともいえる。

もう一度言うが、どっちが良いという話ではない。ただ、物事へのアプローチが自分と違う人への配慮というのはもっと必要だなと反省したりもする。

考えすぎない(三行日記)

今読んでいる本は「考えすぎるとだいたい良いことにならないから考えすぎない練習をしよう」という本で、読み始めてすぐに「確かになあ」と思った。その本には「考えている時にしかネガティブな感情は抱けない」とか「思考の内容ではなく思考の量がストレスをもたらす」などと書いてある。いくぶん、仏教的な思想のようでもある。

思い当たるフシがあるのは、だいたい私が考え方がポジティブになったのはテニスを始めてからだという記憶があるからだ。それまでは会社の分かりもしない未来のことを考えてウジウジと思考を巡らせていたものだ。

もう一つ考えすぎを防ぐのに良い効果があるのは、やはりルーティン化だろう。私は最近は特に朝のルーティンを多くすることにしているので、朝起きたら今日のタスクについてあれこれ悩む暇もなくさっさと服を着替え日焼け止めを塗り、庭に出て花に水をやることから一日をスタートする。これらの行動でかなりネガティブな思考が消えたので効果は抜群である。

社内セキュリティ研修を久しぶりにオフラインでやりました

年に一度はセキュリティ研修という名目で社の研修会をしているのだが、コロナの関係でここ三年ほどオンラインでやっていた。が、6月1日に久しぶりに対面で開催した。

セキュリティ研修と言っても、セキュリティ以外の内容も含むさまざまなパートから構成されている。わが社は委員会活動というのがあって、セキュリティ委員会、イベント企画委員会、防災BCP委員会という三つの委員会が常時運営されている。それぞれの委員会が趣向を凝らして毎年の発表内容やグループ研修を行う。

なんといっても今年のトピックは、防災BCP委員会のパートの中で、わが社の社員のひとりが正月に石川県に帰省していた際に能登半島地震に遭った時の様子を語ってくれたことだろう。テレビやネットなどのメディアの呼びかけによって高められる防災意識よりも、ひとつのリアルな体験談のほうがはるかに聞くものの心に届く。

さて、研修が終わったところで、50周年の記念の集合写真を撮った。昨年の式典の際には社員だけで記念写真を撮ることがなかったので心残りだったのだ。節目節目で写真を撮っていると、たまに見返す時に感慨深いものがある。

最後になるが、この研修を終えた数日後6月3日に再び能登半島で地震が観測された。被災地の一日も早い復興を願う。

人は忘れる生き物だから

「学習」という行為にはいくつかの敵が潜んでいる。

一つ目は、「習慣化の挫折」の問題で、習慣が途絶えた途端に再度の習慣化はとてつもなく力が要る。

二つ目、自分の脳内で沸き起こる「批判の声」だ。「こんなことして何になるんだ?」「この歳で頑張っても今さら遅いし、若い人にすぐ追い抜かれてしまうよ」などの声が、壁にぶつかるたびに脳内に響き渡る。

もう一つ、これもなかなか困ったことなのだ「忘れる」ってのがある。脳のどこかには残っているのだろうが、数日間学習を怠るともう駄目だ。だから一つ目の敵である「習慣化の挫折」と「忘れる」はセットで発生する。

だから最近の私はできるだけ習慣化したいものは毎日5分でもいいから行動するようにはしている。三日ほど空いてしまうと、もうコツコツ積み上げた習慣は途絶えてしまったりするから。

とはいえ仮に毎日学習していても、とにかくびっくりするぐらいいろんなことを忘れる。

たとえば、些細なことなのだが、「Microsoft Wordの表組の罫線を一部だけ消すのってどうしたらいいんだっけ?」っていうのを、私は何度ググっただろうか。あるいは、電子工作をしていて「回路図のアノードとカソードの記号、どっち向きに書くのがいいんだっけ?」っていうのをこれまた何度も忘れている。この手の「忘れ」が発生するたびに、学習の意欲が少しずつ削がれていく。

今、『アンメット』というテレビドラマが放映されていて、とても楽しみに見ている。主人公はある出来事を境に、毎日、昨日の出来事の記憶を失くしてしまう。なので、毎朝、自分が記憶を失ってからここまでの出来事を綴った日記を読み返すところから主人公の一日がスタートする。 よくある設定だし、実際にそのような脳の状態を抱えて生きてらっしゃるかたも多いだろうから「大変だろうなあ」とは思うけど、自分は実際にはそういう脳ではない。そういう脳ではない?本当にそうか?

さっきも何回検索しただろうということをまたしても検索したじゃないか。

先月、出張に行くときにコンビニによく置いてある、手のひらに乗る程度のメモ帳を買った。それ以来、メモ帳に調べものをした結果をメモにとり、たまにざっくり見返すようにしている。アンメットの主人公のように。

メモを取るのが面倒だったり、メモを取ることを忘れていることも多いのだが、一日に一言でもメモをしておくことで習慣が途切れることを少しばかり防ぐことができる。

昨日植えた花の名前、Ilustratorで多角形の角を増やす方法、読んだ本で忘れたくないこと。書いてあるジャンルはまちまちだけど、私は自分が記憶を失う主人公だと思って生活するようにしている。そういうことをとにかく工夫しないと、生活というのは繋がっていかないし積みあがっていかない。

ただしそのうち、お気楽に忘れてしまうほうが自分の人生にとって良いというような日が来たなら、その時はメモを持つのをやめようとも思っている。

GW中のビブリオバトル

週一でブログを書こうと思っているが慌ただしくしているとあっという間に時間が経ち、ネタがなくてあわあわしてしまう。もう日が経ちすぎて申し訳ないがGW中にやったビブリオバトルの日のことを絵日記に描いているので、それを掲載してお茶を濁そうと思う。

ビブリオバトルはだいたいいつものメンバーで酒やら本やら持ち込んでワイワイやるのだが、あの日は6人ぐらいでやって、ここに掲載した本の写真はごく一部。実際に飛び交う本の量はもっと多い。

私はそんな中、「今日はお酒を呑まない」と決めていた。翌朝もテニスだったので。だが、ビブリオバトルに向かう前に寄ったコンビニでは酒のアテっぽいものばかり買ったので、コンビニのおばちゃんがなかなか手を緩めてくれなかった、ということを描いた。

あと、小さいコマに描いてある「だがしおじさん」というのは「お菓子の大町」の社長さんのことで、これはビブリオバトルからさらに一週間経ったある日の出来事だ。「だがしおじさん」はちんどん屋の恰好をし、高下駄を履いて登場するのだ。その高下駄の歯を長く過ぎたせいで、お菓子の大町の社長さんは一時期、足を骨折していたと仰っていた。高下駄の歯は、そんなわけで今は少し短くなっているのだ。「だがしおじさん」に会ったら、是非、高下駄の高さに注目して欲しい。

習慣化の話の続き

以前、「みんチャレ」という習慣化アプリが良い、ということを書いた。使い始めたのは今年の初め頃だったが、使い始めた当初よりもだんだん使い方がうまくなってきた気がする。

「みんチャレ」は「健康」とか「学習」とか「美容」とか「スポーツ」などのカテゴリでさまざまな定員5人までのチームが作られていてその中から自分に合うテーマやメンバー構成を選んでチームに参加する、もしくは自分がオーナーになってチームを作ることもできる。

ここで大事なのは、自分に合わないと思ったらチームをどんどん乗り換えるということだ。たとえば報告(チャレンジ)に「OK」をし合うのだが、「OK」のみで何のコメントももらえない、つまり会話がないチームだとやる気が萎えてしまう。それぞれのチャレンジに暖かい言葉をかけあう雰囲気のあるチームのほうが続け易い。

また、「今日はできなかった」「最近がんばれない」という理由をオープンにし合えるチームのほうが良い。体調が悪い日が続いたり、家族の問題があったり。そういうことを打ち明け易く、同時に踏み込み過ぎない程度に悩みに対して共感し合えたら良い。この雰囲気は私が女性なので女性が中心のチームのほうが作り易いかも。

更に、学習系だとちょっとしたアドバイスがし合える方が良いので、学習テーマが具体的で互いのレベルが近い方が良い。「毎日少しでも勉強を頑張る」といった感じのチームにいた時は、お互いにやっている学習がバラバラなので互いに相手の学習内容が分からないせいでコメントもしずらく、けっきょく離脱してしまった。今は、電気回路系のチームにいてレベル感も近いので、「この問題が分からない」みたいなことを相談する人がいて、そうなるとこちらもちょっと解いてみよう、などとなって刺激になるし、良いテキストも紹介し合える。

最後になんとなく「続ける意義」みたいなのが分からなくなってくることもあると思うが、そういう人には『続ける思考』という本がとても良かったのでお勧めしたい。

ブックデザイナーである筆者がどうすれば習慣を定着させられるかを書いているのだが、すべて筆者の体験なので参考にし易い。筆者のかたはたくさんの習慣を継続されているが、特に面白いチャレンジとして、47歳の時に48歳までにマイケル・ジャクソンのナンバーの振りを踊って動画を取るという挑戦をされていて、実際にその動画のリンクが掲載されているのだけど、自分で工夫して少しずつ踊れるようになっていく過程のくだりを読んだときは大変勇気づけられた。

今は、私は「みんチャレ」は6チーム入っていて、すべてのチームのチャレンジを朝の出勤前までに終えてから出勤している。生活にハリが出て、自分に自信がついてきた。

BLUE NOTE TOKYO

ゴールデンウイーク前に東京出張に行った折に青山のブルーノートに行った。日頃よりお世話になっている一回り年上の知人がちょっとした出来事のお詫びにということで誘ってくださった。私はブルーノートは初めてである。ブルーノートでは事前に公開されているスケジュールより公演を選び、ネットで予約する手続きが要るようで、更には軽食やディナーのコースなども選べる。

私が予約していただいたのは夜の20時半ぐらいからの公演で、待ち合わせの時間より中に入れるまでに時間があったのでブルーノートのBARで軽く呑んで時間をつぶした。

誘ってくださったかたは「今日の演目はよく分からない外人のユニットなんだ」と言う。実際にはジャズ界の巨匠ウェイン・ショーターとカルテットを組んでいた三人が、急逝したウェイン・ショーターに捧げるトリオ「CHILDREN OF THE LIGHT」を組んだというのは後で調べて分ったのだが、どうやらこのユニットはとんでもないテクニックを持ち、熱烈なファンがいたようで、席に通してもらったときにはすでに満席に近く、ファンが興奮していた。

更に誘ってくださったかたは向かって右の舞台すその席しか取れなかったこと詫びて「こんな席でごめんなさいね」と言うのだが、開演前にファンらしき人達がしきりに我々の前に立ち、舞台すそからドラムの写真を撮り、あれこれと話し込んでいる。誘ってくださったかたがその若い3人の人たちに「今日のトリオはすごいのか」「この席はもしかしてとても良い席なのか」と訊くと「まさにとてもグレイトなトリオで、そのプレイを見えるこの席は最高ですよ」と言う返事だった。

ホール係の接客も素晴らしく(多分、それも込みで観客が集中して演奏を楽しめるように配慮している)、食事のコースが始まる前にアレルギーについて確認されたので、「グルテンアレルギーです」と言うと、即座にグルテンフリーのメニューに変更してくれたりもした。

「CHILDREN OF THE LIGHT」の演奏はこれまでに私が聴いたことのないような類のジャズだった。どういったらいいのかな。陳腐な表現に聞こえるかもしれないが、宇宙のような音楽でとても大きなスケールの音楽を聴かせてくれた。

JAZZのセッションでスタンディングオベーションが起こるのを、私は初めて見た。誘ってくださったかたに訊いても、スタンディングオベーションは初めての体験だったようだ。

誘ってくださったかたは、「たまたまだったけどラッキーだったね」と仰っていたが、本当に素晴らしい夜を過ごすことができた。