最近少し話題になっているphaさんの『パーティが終わって中年が始まる』を読んだ。シェアハウスブームの草分け的存在として、多くの若者の共感を得てきた作者が中年になり、「普通の中年になりたくなかった」自分が中年に向き合うことになって思う率直な心情が書き記されている。
個人的には、中年期の老いというものに対して深くうなずく部分もあるが、一方で「分かる分かる」と中年同士で言い合っててもしょうがないかなとも思う。
「体力がなくなってからが勝負」と、よく思う。
「体力がなくなったから終わり」ではないのだ。ここから「元気な老人である」ことを選ぶのか「まったりと生きる」ことを選ぶのか。いくつかの残された選択肢を見つめて、自分の残りの人生をどこに賭けるかを選択していかねばならない。持てるリソースが減るほどに、選択肢が減り、おかげで選ぶ道がはっきりしてくる。
ところでかなり以前、勉強場所についていろいろ模索しているというエントリを書いたが(その時は部屋の床に正座用クッションを置いてやっていた)、今回は勉強机の前面にワイヤーパネルを設置してみた。とにかく、学習環境は延々と模索をしている。なんなら、「学習時間」と「学習環境を模索している時間」と同じくらいとっている。机も二個にしてみたり、一個に戻したり、机の向きを変えてみたり、しょっちゅういろいろ変えている。それぐらいしないと、私はすぐ学習意欲が霧散してしまう人間なのだ。こういうこともまた中年に突入してからの私なりのもがき方の一つなのだ。体の衰えにともなう集中力の低下に、せいぜい抗っている。