もがく力

最近少し話題になっているphaさんの『パーティが終わって中年が始まる』を読んだ。シェアハウスブームの草分け的存在として、多くの若者の共感を得てきた作者が中年になり、「普通の中年になりたくなかった」自分が中年に向き合うことになって思う率直な心情が書き記されている。

個人的には、中年期の老いというものに対して深くうなずく部分もあるが、一方で「分かる分かる」と中年同士で言い合っててもしょうがないかなとも思う。

「体力がなくなってからが勝負」と、よく思う。

「体力がなくなったから終わり」ではないのだ。ここから「元気な老人である」ことを選ぶのか「まったりと生きる」ことを選ぶのか。いくつかの残された選択肢を見つめて、自分の残りの人生をどこに賭けるかを選択していかねばならない。持てるリソースが減るほどに、選択肢が減り、おかげで選ぶ道がはっきりしてくる。

ところでかなり以前、勉強場所についていろいろ模索しているというエントリを書いたが(その時は部屋の床に正座用クッションを置いてやっていた)、今回は勉強机の前面にワイヤーパネルを設置してみた。とにかく、学習環境は延々と模索をしている。なんなら、「学習時間」と「学習環境を模索している時間」と同じくらいとっている。机も二個にしてみたり、一個に戻したり、机の向きを変えてみたり、しょっちゅういろいろ変えている。それぐらいしないと、私はすぐ学習意欲が霧散してしまう人間なのだ。こういうこともまた中年に突入してからの私なりのもがき方の一つなのだ。体の衰えにともなう集中力の低下に、せいぜい抗っている。

6月に読んだ本

少し早いが、6月に読んだ本。

6月はとにかく『ソロモンの偽証』の「第三部 法廷」をひたすら読んでいた。読んでいたというかオーディブルで聴いていた。知っているかたも多いと思うが、『ソロモンの偽証』は全三部作、舞台が中学で、教師・生徒・親など多くの関係者が登場する。その登場人物の声色を声優の羽飼まりさんが巧みに使い分けていたのに感心をした。長編なので最初と最後で同じ人物の声色が変わってしまってはいけない。どうやってその声質を維持できるのだろう。私だったらどうするか。たとえば一人ひとりの登場人物のイメージ写真を用意し、その特徴を何か本人に分かる形でメモして、そのメモを見ながら…。いや、声優さんだからスイッチのように切り替えられるのだろうか。たくさんのタイトルを擁するオーディブルでも、そんなに細かく使い分けができる人はそう多くないと思うので、そのあたりひたすら心で拍手しながら聴いていた。

その他、トピックとしては6月は『日経WOMAN』の別冊を特に、勉強を中心とした暮らしにスポットを当てたものを買った。さまざまな人の学習法や学習環境について取材しているが、特に私の年齢から上の人の学習に興味がある。年齢は関係ないとはいえ、自然、周囲にも勉強し続ける人が減ってくるので、たまにこういう雑誌を買って刺激を受けることが必要なのだ。

少し気ぜわしい日々を送っていたのだが、少し生活も落ち着きを取り戻すはずなので来月は技術書を中心に読み進められたらと思う。

他人の成長の不意打ち

管理職として人を指導した期間が長くなってきたり、人を教える職業を長くしてきたりすると、人の成長について見積ることが正確になってくるとも言えるが、たまに予想を裏切って成長する人が出てきたときに不意打ちを食らうこともあるのではないか。不意打ちまでいかなくても、ハッとさせられたり、あせらされたりすることもあるのではないか。

私はテニススクールに通っていて、今、同じレベルに三年半ほど在籍しているのだが、そろそろ上のクラスに上がりたいとずっと思っていた。友達にも「ゆかりさんはいつ上がってもおかしくないよね」と言われつつあったし、自分でも試合に出た時の勝率がよくなってきたりと成長を実感してきたのだが、コーチの認定がないと上のクラスに上がれない。それでコーチに「どうしたら上がれますか?」と訊くと「ゆかりさんは今上がると腕を傷めるから」というような返事が返ってきたこともあった。それならば、スピンにスピンで返すと腕の衝撃が大きいのでスライス(逆回転)を打てるようになればいいのだなと思い、スライスを三ヶ月ぐらいかけてマスターした。新しいフォームを学ぶのはスポーツにおいては結構難しいと思うのだが、一人でコツコツ練習したり、プライベートレッスンを受けたりしてずいぶんと頑張った。

しかしながら、スライスをマスターしてもなかなかコーチの認定が得られない日々が続いた。だが転機は訪れた。私以外は全員私より上のレベルというスクール内のテニス大会に出て、いろいろラッキーが重なって私が優勝してしまったのだ。さすがのコーチも、こうなれば私を上のクラスに上げざるを得ないということで来期からクラスをレベルアップしてもらうことになった。

本当に嬉しい。がしかし、あのスクール内の大会に出ていなかったら私はコーチにどうやって正しく自分の成長を伝えられることができただろうかと思うと複雑な気持ちにもなる。「日頃から上に上がりたいことをアピールし、成長を伝えるチャンスをつかむ」のも大事なのかもしれない。

また違う話になるが、私のところに定期的にいろんな相談をしにくる同業の、立場も私と似たように事業を継がれたかたがいるのだが、そのかたがある時ひどく落ち込んでいたことを告白してきた。何があったのかと訊いてみると、そのかたは「自分がさほどでもないと思っていた部下がこつこつと一人努力を続けた結果、自分が想定しているよりもはるかにできる人材になっていた」ことにショックを受けたようなのだ。

普通であれば部下の成長は喜ぶところであるが、自分がさほど評価していない人が思いがけず成長していることに脅威を感じたのかもしれないし、評価を見誤ったことで落ち込みを感じたのかもしれない。

こういった話を総合してみるに、人は人の成長を正しく見極められるとは限らないし、必ずしも他人の成長を賞賛できるとも限らない。もっと悪い事態(成長を否定したり、嫉妬からキャリアを潰そうとするかもしれない)を引き起こすこともあるかもしれない。

「成長」をどのようにキャリアアップや現状打破に繋げられるかは、それはそれでまた別のスキルとして考える必要がある。

着手するまでの時間の話

私は思い立ったら着手するまでの時間が早い。相対的な話である。

私は最近、以前に比べてChatGPTを使う頻度がどんどん上がっている。ChatGPT4oを無料で使えるようになってその精度もぐぐーんと上がり、とても便利だ。特に気に入っているのは「趣味の電子工作でセンサーの使い方などを勉強するとき、本に掲載された課題を参照するとたくさんの部品を買い足さなくてはいけないので、逆に限られた手持ちの部品だけで済ませたい。ならば、手持ちの部品の型番を伝えてChatGPTに課題を作ってもらおう」というような使い方だ。配線図からPythonコードまでほぼ正確に答えも提示してくれる。

ところで、私はそんな風に楽しくChatGPTを使っているので夫も使ったらいいのになあと思っているのだが、夫はまずChatGPTの本を買ってじっくり読み(今年の正月頃)、その後、特にChatGPTを使っている気配もない。夫とChatGPTについておしゃべりしたいのになあと思っていたので「なぜChatGPTを使わないのか」と訊いたりしていた。

また、私は朗読本をいろいろと聴けるというオーディブルのサブスクに入って本を聴きまくっている。目が疲れるため読書量が落ちたのがきっかけだ。オーディブルは新しいタイトルの本もたいがい網羅されている。少し費用が高いが、これだけの豊富な本から選べるのであれば安いぐらいだ。家事をしながら聴くことも多いので、家事の苦痛も若干緩和された。

先日、夫がオーディブルについて私に訊いてきたので、その素晴らしさを諄々と説明した。また、無料お試し期間があることも伝え、是非体験して欲しいと伝えたのだが、その後特にオーディブルを活用している気配もない。両目を白内障手術した夫なので、私よりも目を使わずに読書ができるメリットは大きいのではと思ったのに残念である。「なぜオーディブルを使わないのか」と、またしても夫に尋ねたのであった。

長年一緒に暮らしてきて、そのあたりの夫と私のスタンスの違いをあまり言語化してこなかったのだが、改めて「かなり違うことだよなあ」と思った。

夫は何かを買うにしてもじっくりとカタログスペックを読み込んだりするが、私はさっさと人に訊いておススメをそのまま買ったりする。そういうところも全然違う。

どちらが良いということではない。私のほうが無駄が多い生き方ともいえる。夫は、趣味のクライミングでも、いきなりササっと登らずにいろいろな人がそのルートを登るのをじーっと見て一番無駄のない登り方を見極めてから一発で登ったりするのが好きというか、流儀なのだ。

そのあたりをあまり意識せずに生きてきたせいで、私はこれまで何回も夫に「なぜ〇〇を始めないのか」と訊いてきた。非難しているのではない。素朴に疑問だったのだ。そして私は検討する過程を楽しむという習慣があまりないともいえる。

もう一度言うが、どっちが良いという話ではない。ただ、物事へのアプローチが自分と違う人への配慮というのはもっと必要だなと反省したりもする。

考えすぎない(三行日記)

今読んでいる本は「考えすぎるとだいたい良いことにならないから考えすぎない練習をしよう」という本で、読み始めてすぐに「確かになあ」と思った。その本には「考えている時にしかネガティブな感情は抱けない」とか「思考の内容ではなく思考の量がストレスをもたらす」などと書いてある。いくぶん、仏教的な思想のようでもある。

思い当たるフシがあるのは、だいたい私が考え方がポジティブになったのはテニスを始めてからだという記憶があるからだ。それまでは会社の分かりもしない未来のことを考えてウジウジと思考を巡らせていたものだ。

もう一つ考えすぎを防ぐのに良い効果があるのは、やはりルーティン化だろう。私は最近は特に朝のルーティンを多くすることにしているので、朝起きたら今日のタスクについてあれこれ悩む暇もなくさっさと服を着替え日焼け止めを塗り、庭に出て花に水をやることから一日をスタートする。これらの行動でかなりネガティブな思考が消えたので効果は抜群である。

社内セキュリティ研修を久しぶりにオフラインでやりました

年に一度はセキュリティ研修という名目で社の研修会をしているのだが、コロナの関係でここ三年ほどオンラインでやっていた。が、6月1日に久しぶりに対面で開催した。

セキュリティ研修と言っても、セキュリティ以外の内容も含むさまざまなパートから構成されている。わが社は委員会活動というのがあって、セキュリティ委員会、イベント企画委員会、防災BCP委員会という三つの委員会が常時運営されている。それぞれの委員会が趣向を凝らして毎年の発表内容やグループ研修を行う。

なんといっても今年のトピックは、防災BCP委員会のパートの中で、わが社の社員のひとりが正月に石川県に帰省していた際に能登半島地震に遭った時の様子を語ってくれたことだろう。テレビやネットなどのメディアの呼びかけによって高められる防災意識よりも、ひとつのリアルな体験談のほうがはるかに聞くものの心に届く。

さて、研修が終わったところで、50周年の記念の集合写真を撮った。昨年の式典の際には社員だけで記念写真を撮ることがなかったので心残りだったのだ。節目節目で写真を撮っていると、たまに見返す時に感慨深いものがある。

最後になるが、この研修を終えた数日後6月3日に再び能登半島で地震が観測された。被災地の一日も早い復興を願う。

人は忘れる生き物だから

「学習」という行為にはいくつかの敵が潜んでいる。

一つ目は、「習慣化の挫折」の問題で、習慣が途絶えた途端に再度の習慣化はとてつもなく力が要る。

二つ目、自分の脳内で沸き起こる「批判の声」だ。「こんなことして何になるんだ?」「この歳で頑張っても今さら遅いし、若い人にすぐ追い抜かれてしまうよ」などの声が、壁にぶつかるたびに脳内に響き渡る。

もう一つ、これもなかなか困ったことなのだ「忘れる」ってのがある。脳のどこかには残っているのだろうが、数日間学習を怠るともう駄目だ。だから一つ目の敵である「習慣化の挫折」と「忘れる」はセットで発生する。

だから最近の私はできるだけ習慣化したいものは毎日5分でもいいから行動するようにはしている。三日ほど空いてしまうと、もうコツコツ積み上げた習慣は途絶えてしまったりするから。

とはいえ仮に毎日学習していても、とにかくびっくりするぐらいいろんなことを忘れる。

たとえば、些細なことなのだが、「Microsoft Wordの表組の罫線を一部だけ消すのってどうしたらいいんだっけ?」っていうのを、私は何度ググっただろうか。あるいは、電子工作をしていて「回路図のアノードとカソードの記号、どっち向きに書くのがいいんだっけ?」っていうのをこれまた何度も忘れている。この手の「忘れ」が発生するたびに、学習の意欲が少しずつ削がれていく。

今、『アンメット』というテレビドラマが放映されていて、とても楽しみに見ている。主人公はある出来事を境に、毎日、昨日の出来事の記憶を失くしてしまう。なので、毎朝、自分が記憶を失ってからここまでの出来事を綴った日記を読み返すところから主人公の一日がスタートする。 よくある設定だし、実際にそのような脳の状態を抱えて生きてらっしゃるかたも多いだろうから「大変だろうなあ」とは思うけど、自分は実際にはそういう脳ではない。そういう脳ではない?本当にそうか?

さっきも何回検索しただろうということをまたしても検索したじゃないか。

先月、出張に行くときにコンビニによく置いてある、手のひらに乗る程度のメモ帳を買った。それ以来、メモ帳に調べものをした結果をメモにとり、たまにざっくり見返すようにしている。アンメットの主人公のように。

メモを取るのが面倒だったり、メモを取ることを忘れていることも多いのだが、一日に一言でもメモをしておくことで習慣が途切れることを少しばかり防ぐことができる。

昨日植えた花の名前、Ilustratorで多角形の角を増やす方法、読んだ本で忘れたくないこと。書いてあるジャンルはまちまちだけど、私は自分が記憶を失う主人公だと思って生活するようにしている。そういうことをとにかく工夫しないと、生活というのは繋がっていかないし積みあがっていかない。

ただしそのうち、お気楽に忘れてしまうほうが自分の人生にとって良いというような日が来たなら、その時はメモを持つのをやめようとも思っている。