やったことは身体に残っている

今年に入って、ITスクールでRailsの学習をされていた女性が中途入社してくれた。

その後、会社の全体研修の後の懇親会で「Rails on Rails(フレームワーク)」をまったくたしなまない社の人(男性)から「Railsって女の子がやるものでしょ」発言があったようで、「なぬ?聞き捨てならぬ!そんなことあるわけないだろう!」、と驚いたが、一時期「Railsガールズ」的な活動もいくつも立ち上がったと思うし、入社してくれた人もスクール生は女性がほとんどだったと言っていたので、一部そういうイメージがあるのかもしれない。

最近は私の持っているプロダクトが久々に作り直しになりRails3からRails7にリプレースしたいなと思っているのだが、Railsはバージョンが上がるたびにそれまでのアーキテクチャを捨てて、ガラッと変更を加えてくる、ものすごくアグレッシブなフレームワークだと思う。Rails7ではついにデフォルトでJavaScriptバンドルを選ばなくなり、よりRails内で簡潔した、よりシンプルな方向に舵を切った。ただし乗り換えコストが少々かかるけれども。

いずれにしても、さまざまなオープンソースが理想を追求し、新しいバージョンをリリースしてくると我々はどこで新しいバージョンに乗り換えるかを悩むし、新しいバージョンにアクセスするときはどうしても技術情報が少ないから、テクニカルな情報の収集には英語を使えたほうがいい。

ということもあり、このたび英会話スクール(対面)に通うことにした(もう一つの理由としては、今やってるドラマ『新宿野戦病院』の主人公役を小池栄子さんがやっていて岡山弁と英語のバイリンガルでめちゃくちゃカッコいいので、むしろこっちの理由が大きいかもしれない)。

個人的にNHK英会話やテキストでぽつぽつ学習していたものの、それじゃあ間に合わないのでちゃんと習いに行くことに。申し込みの時にまずは自分のレベルを申告しなくれはいけないのだが、そもそも自分のレベルってどれくらいなの?というところから不明。なので、二人の日本人講師と外国人講師と15分ずつ会話して、だいたいのレベル感を見てもらい「まあまあイケそうなので、初心者よりは上のレベルから始めましょう」ということになった。

この時に活きたのが、去年オンライン英会話教室を一ヶ月ほどやった成果だと思う。すぐ辞めた理由は、毎回選べる講師が変わるので自己紹介ばかりしないといけなかったからなのだが、自己紹介というか、ある程度自分のことを言語化できるスキルはどんな会話においても必要で、どんなレッスンでも自分のことをしゃべることから始まる。

そういうことが体験として残っていたことがものすごく役に立ったので、どんなに成長の実感が得られなかった体験でも、やったこと自体はしっかりと身体に残っていて、必要に応じて取り出せる経験になるということを改めて実感した。

一度ステージに上がるとなかなか降りられない

その昔、私はずっと人前でしゃべるのが苦手だった。あがり症で、息を吸うばかりで吐けないので声が上ずる。

20代とか30代でいろんなことが上手くいかないとき、ずっと「人生のステージを上がればそこには同士がおり、いろんなことが楽になるのではないか」と思っていたし、「人生のステージを上がるということは、つまり、より多くの人の前に出ることだ」と信じていた頃があった。信じていたので、そのことに対する努力を厭わなかったから、スピーチを習いに行きそれなりに人前が苦手であることを克服していく過程も楽しかった。

しかし、最近になるともう、自分の成長というのはいつまでも続かないということが分かる(そういうことについては『人生後半の戦略書』という本に詳しく書いてある)。そうなると人前に出るのも億劫になってきた。人前に出る機会が減ると人前でしゃべることへの緊張感が復活してきたので、「本気でこういうことから降りたいなあ」と思うようになった。

しかしこれがなかなかうまくいかない。「もう降りたい」と周囲に言うと、「またまたまた~」と胡麻化されたり、「そういわずもっと頑張ってください」と励まされたりする。

先日も、某団体のOB会長として挨拶をしなければならなかった。が、そもそもOB会長という役も降りたいのだ。しかし、なかなか周囲が許してくれない。

最近はよく思う。ステージに上がるのは名誉なこと、ではなくお調子者が周囲から担ぎ上げられた結果なのではと。

でもまあ、たまにあるでしょう。さっと潔く、すべての表舞台から身を退くことができる人が。そういうのを目指したいなとは思ってます。

もがく力

最近少し話題になっているphaさんの『パーティが終わって中年が始まる』を読んだ。シェアハウスブームの草分け的存在として、多くの若者の共感を得てきた作者が中年になり、「普通の中年になりたくなかった」自分が中年に向き合うことになって思う率直な心情が書き記されている。

個人的には、中年期の老いというものに対して深くうなずく部分もあるが、一方で「分かる分かる」と中年同士で言い合っててもしょうがないかなとも思う。

「体力がなくなってからが勝負」と、よく思う。

「体力がなくなったから終わり」ではないのだ。ここから「元気な老人である」ことを選ぶのか「まったりと生きる」ことを選ぶのか。いくつかの残された選択肢を見つめて、自分の残りの人生をどこに賭けるかを選択していかねばならない。持てるリソースが減るほどに、選択肢が減り、おかげで選ぶ道がはっきりしてくる。

ところでかなり以前、勉強場所についていろいろ模索しているというエントリを書いたが(その時は部屋の床に正座用クッションを置いてやっていた)、今回は勉強机の前面にワイヤーパネルを設置してみた。とにかく、学習環境は延々と模索をしている。なんなら、「学習時間」と「学習環境を模索している時間」と同じくらいとっている。机も二個にしてみたり、一個に戻したり、机の向きを変えてみたり、しょっちゅういろいろ変えている。それぐらいしないと、私はすぐ学習意欲が霧散してしまう人間なのだ。こういうこともまた中年に突入してからの私なりのもがき方の一つなのだ。体の衰えにともなう集中力の低下に、せいぜい抗っている。

6月に読んだ本

少し早いが、6月に読んだ本。

6月はとにかく『ソロモンの偽証』の「第三部 法廷」をひたすら読んでいた。読んでいたというかオーディブルで聴いていた。知っているかたも多いと思うが、『ソロモンの偽証』は全三部作、舞台が中学で、教師・生徒・親など多くの関係者が登場する。その登場人物の声色を声優の羽飼まりさんが巧みに使い分けていたのに感心をした。長編なので最初と最後で同じ人物の声色が変わってしまってはいけない。どうやってその声質を維持できるのだろう。私だったらどうするか。たとえば一人ひとりの登場人物のイメージ写真を用意し、その特徴を何か本人に分かる形でメモして、そのメモを見ながら…。いや、声優さんだからスイッチのように切り替えられるのだろうか。たくさんのタイトルを擁するオーディブルでも、そんなに細かく使い分けができる人はそう多くないと思うので、そのあたりひたすら心で拍手しながら聴いていた。

その他、トピックとしては6月は『日経WOMAN』の別冊を特に、勉強を中心とした暮らしにスポットを当てたものを買った。さまざまな人の学習法や学習環境について取材しているが、特に私の年齢から上の人の学習に興味がある。年齢は関係ないとはいえ、自然、周囲にも勉強し続ける人が減ってくるので、たまにこういう雑誌を買って刺激を受けることが必要なのだ。

少し気ぜわしい日々を送っていたのだが、少し生活も落ち着きを取り戻すはずなので来月は技術書を中心に読み進められたらと思う。

他人の成長の不意打ち

管理職として人を指導した期間が長くなってきたり、人を教える職業を長くしてきたりすると、人の成長について見積ることが正確になってくるとも言えるが、たまに予想を裏切って成長する人が出てきたときに不意打ちを食らうこともあるのではないか。不意打ちまでいかなくても、ハッとさせられたり、あせらされたりすることもあるのではないか。

私はテニススクールに通っていて、今、同じレベルに三年半ほど在籍しているのだが、そろそろ上のクラスに上がりたいとずっと思っていた。友達にも「ゆかりさんはいつ上がってもおかしくないよね」と言われつつあったし、自分でも試合に出た時の勝率がよくなってきたりと成長を実感してきたのだが、コーチの認定がないと上のクラスに上がれない。それでコーチに「どうしたら上がれますか?」と訊くと「ゆかりさんは今上がると腕を傷めるから」というような返事が返ってきたこともあった。それならば、スピンにスピンで返すと腕の衝撃が大きいのでスライス(逆回転)を打てるようになればいいのだなと思い、スライスを三ヶ月ぐらいかけてマスターした。新しいフォームを学ぶのはスポーツにおいては結構難しいと思うのだが、一人でコツコツ練習したり、プライベートレッスンを受けたりしてずいぶんと頑張った。

しかしながら、スライスをマスターしてもなかなかコーチの認定が得られない日々が続いた。だが転機は訪れた。私以外は全員私より上のレベルというスクール内のテニス大会に出て、いろいろラッキーが重なって私が優勝してしまったのだ。さすがのコーチも、こうなれば私を上のクラスに上げざるを得ないということで来期からクラスをレベルアップしてもらうことになった。

本当に嬉しい。がしかし、あのスクール内の大会に出ていなかったら私はコーチにどうやって正しく自分の成長を伝えられることができただろうかと思うと複雑な気持ちにもなる。「日頃から上に上がりたいことをアピールし、成長を伝えるチャンスをつかむ」のも大事なのかもしれない。

また違う話になるが、私のところに定期的にいろんな相談をしにくる同業の、立場も私と似たように事業を継がれたかたがいるのだが、そのかたがある時ひどく落ち込んでいたことを告白してきた。何があったのかと訊いてみると、そのかたは「自分がさほどでもないと思っていた部下がこつこつと一人努力を続けた結果、自分が想定しているよりもはるかにできる人材になっていた」ことにショックを受けたようなのだ。

普通であれば部下の成長は喜ぶところであるが、自分がさほど評価していない人が思いがけず成長していることに脅威を感じたのかもしれないし、評価を見誤ったことで落ち込みを感じたのかもしれない。

こういった話を総合してみるに、人は人の成長を正しく見極められるとは限らないし、必ずしも他人の成長を賞賛できるとも限らない。もっと悪い事態(成長を否定したり、嫉妬からキャリアを潰そうとするかもしれない)を引き起こすこともあるかもしれない。

「成長」をどのようにキャリアアップや現状打破に繋げられるかは、それはそれでまた別のスキルとして考える必要がある。

着手するまでの時間の話

私は思い立ったら着手するまでの時間が早い。相対的な話である。

私は最近、以前に比べてChatGPTを使う頻度がどんどん上がっている。ChatGPT4oを無料で使えるようになってその精度もぐぐーんと上がり、とても便利だ。特に気に入っているのは「趣味の電子工作でセンサーの使い方などを勉強するとき、本に掲載された課題を参照するとたくさんの部品を買い足さなくてはいけないので、逆に限られた手持ちの部品だけで済ませたい。ならば、手持ちの部品の型番を伝えてChatGPTに課題を作ってもらおう」というような使い方だ。配線図からPythonコードまでほぼ正確に答えも提示してくれる。

ところで、私はそんな風に楽しくChatGPTを使っているので夫も使ったらいいのになあと思っているのだが、夫はまずChatGPTの本を買ってじっくり読み(今年の正月頃)、その後、特にChatGPTを使っている気配もない。夫とChatGPTについておしゃべりしたいのになあと思っていたので「なぜChatGPTを使わないのか」と訊いたりしていた。

また、私は朗読本をいろいろと聴けるというオーディブルのサブスクに入って本を聴きまくっている。目が疲れるため読書量が落ちたのがきっかけだ。オーディブルは新しいタイトルの本もたいがい網羅されている。少し費用が高いが、これだけの豊富な本から選べるのであれば安いぐらいだ。家事をしながら聴くことも多いので、家事の苦痛も若干緩和された。

先日、夫がオーディブルについて私に訊いてきたので、その素晴らしさを諄々と説明した。また、無料お試し期間があることも伝え、是非体験して欲しいと伝えたのだが、その後特にオーディブルを活用している気配もない。両目を白内障手術した夫なので、私よりも目を使わずに読書ができるメリットは大きいのではと思ったのに残念である。「なぜオーディブルを使わないのか」と、またしても夫に尋ねたのであった。

長年一緒に暮らしてきて、そのあたりの夫と私のスタンスの違いをあまり言語化してこなかったのだが、改めて「かなり違うことだよなあ」と思った。

夫は何かを買うにしてもじっくりとカタログスペックを読み込んだりするが、私はさっさと人に訊いておススメをそのまま買ったりする。そういうところも全然違う。

どちらが良いということではない。私のほうが無駄が多い生き方ともいえる。夫は、趣味のクライミングでも、いきなりササっと登らずにいろいろな人がそのルートを登るのをじーっと見て一番無駄のない登り方を見極めてから一発で登ったりするのが好きというか、流儀なのだ。

そのあたりをあまり意識せずに生きてきたせいで、私はこれまで何回も夫に「なぜ〇〇を始めないのか」と訊いてきた。非難しているのではない。素朴に疑問だったのだ。そして私は検討する過程を楽しむという習慣があまりないともいえる。

もう一度言うが、どっちが良いという話ではない。ただ、物事へのアプローチが自分と違う人への配慮というのはもっと必要だなと反省したりもする。

考えすぎない(三行日記)

今読んでいる本は「考えすぎるとだいたい良いことにならないから考えすぎない練習をしよう」という本で、読み始めてすぐに「確かになあ」と思った。その本には「考えている時にしかネガティブな感情は抱けない」とか「思考の内容ではなく思考の量がストレスをもたらす」などと書いてある。いくぶん、仏教的な思想のようでもある。

思い当たるフシがあるのは、だいたい私が考え方がポジティブになったのはテニスを始めてからだという記憶があるからだ。それまでは会社の分かりもしない未来のことを考えてウジウジと思考を巡らせていたものだ。

もう一つ考えすぎを防ぐのに良い効果があるのは、やはりルーティン化だろう。私は最近は特に朝のルーティンを多くすることにしているので、朝起きたら今日のタスクについてあれこれ悩む暇もなくさっさと服を着替え日焼け止めを塗り、庭に出て花に水をやることから一日をスタートする。これらの行動でかなりネガティブな思考が消えたので効果は抜群である。