蝉が怖い

以前より「みんチャレ」というアプリが大変良いという話を書いている。なかでもガーデニングの習慣がついたのはとても良かった。ガーデニング歴は今の家に引っ越してからだから15年ぐらいなのだが、夏の暑さ、冬の寒さ、虫の発生、茂りまくる雑草、芝の手入れの困難さ、などから庭の手入れは私にとってどちらかというとつらいものであった。

だが、今年に入って芝を人工芝に変えたことが大きな転機になった。天然芝のときは、夏は隙間から雑草が生えまくり、冬は茶色く枯れて、とにかく綺麗な芝の維持は困難を極めていた。ディズニーランドの芝が綺麗なのは毎日スタッフが張り替えているからだ。

意を決して地中に防草シートを張り、地面を人工芝にしたところこれがとても快適で、庭に出るのが楽しくなった。「天然芝が良い」という人は多い。人工芝は暑いよ、と。しかし、安易にそういう人は自分では芝の手入れをしたことがないのではないかと疑っている。

今は毎朝庭に出る。草むしりが面倒だったり、雨で水やり不要だったりで何もしない日もあるが、とにかく朝は外に出る。これが継続の秘訣だ。

それは良かったのだが、ここに来て蝉に悩まされている。我が家には少し大きめの木として「ハートオブゴールド」「ヤマボウシ」「シマトネリコ」が植わっているのだが、6月ぐらいにシマトネリコに大量の蝉の抜け殻がつくようになった。

さらに、しばらくして今である。蝉がわんわんと鳴いている。それはいいのだが、うっかり木に近寄ろうものなら、ギャッと鳴き声をあげて蝉がおしっこをしながら飛び立ったり、地面に落ちている死んだ蝉を触ろうとしたら急にギャーーーーーッと鳴いて飛んでいったりする(いわゆる蝉爆弾)。

これも昨年までの手抜きガーデニングでは気づかなかったのだが、蝉は木だけではなく家の外壁にとまろうとする者も多く、数匹が家の周りを飛び交っていたりするし、昨日などは出勤しようとしたら飛び立った蝉が顔にぶつかってきた。

「蝉害」。そんな言葉はこの世にはないんだろうか。

私は今は、庭に出るときに、ボーッとして木に近寄らないようとても慎重になっている。

なんなら、蝉が支配しているぐらいの庭になっている。

話を膨らませる技術

英会話を習い始めたということもあり、週末は語学学習の本を読んでいた。

読んだのは

  • 『やっぱり英語をやりたい!』著者:鳥飼玖美子
  • 『総理通訳の外国語勉強法』著者:中川浩一

の2冊だ。『総理通訳の外国語勉強法』はアラビア語の通訳をされていたかたの本なので、語学学習といっても英語とは限らないのだが、これらの本を読んで分かるのは語学には「話を膨らませる技術」が必要だということ。いや。これは語学でなくてコミュニケーションの問題なのだ。

例文が一往復の会話で終わっている場合、そこからどう内容を展開させていくか。たとえば、趣味の会話であれば「私は趣味はテニスです」と言った後、テニスはするのが好きなのか観戦が好きなのか、するのはどれくらいの頻度でやっているのか、観戦が好きならどの選手が好きなのか、テニスをするなら試合などは出たことがあるのか、テニスが好きならば他のスポーツはどうなのか、あるいはそれ以外に趣味はあるのか。 みたいなことを英会話のレッスンの前に事前に日本語で準備しておく必要がある。

これはよく言われることだが、英会話が苦手な人はそもそも日本語での会話が苦手な可能性が高いのではないか、というのはこういうことだ。日本人は自分のことを見ず知らずの人に詳細に語るのが苦手なので、準備不足から会話が途切れてしまうことが多そうだ。

ところで私のところには仕事で営業訪問してくる人が多い。いわゆる営業職を専門としている人が来る場合、私もそのトークから営業の極意を知りたいと思ったりもする。ただし、参考にならないことも多い。営業訪問してくる人はまず会社のホームページを見て、それから私のブログを読んでくることが多い。大概は「ブログを拝見させていただきました。社長はテニスが好きなんですね」とか「多趣味ですね」などと言ってくださることが多い。しかし、それはあまり良い営業トークではないなと思う。

「社長のブログを拝見させていただきましたが、社長はテニスが好きなんですね」という会話だけでは凡庸過ぎるのだ。ブログを読んでから営業をかけてくる人の10人に8人は同じ台詞を言うからだ。「どうです?ちゃんとブログを読んで御社の研究をしていますよ」というアピールにすらならない。

最終的には、その人が自分のことを自分の言葉で語る技術を持っていてこそ、私はその営業の人の話を聞こうという気持ちになる。

『総理通訳の外国語勉強法』では、「自己発信ノート」という自分が発信する内容を書き留めたノートを作ることを勧めている。中川氏の学習法はインプットとアウトプットを5割ずつにすることを勧めているのだが、それはインプット一方では会話はうまくならないという自身の経験を踏まえてのことなのだ。

語学学習に限らず、人との関係のフックを作るには会話の準備・ストックは要るよなあ、と改めて英会話の準備をしながら思うのであった。

やったことは身体に残っている

今年に入って、ITスクールでRailsの学習をされていた女性が中途入社してくれた。

その後、会社の全体研修の後の懇親会で「Rails on Rails(フレームワーク)」をまったくたしなまない社の人(男性)から「Railsって女の子がやるものでしょ」発言があったようで、「なぬ?聞き捨てならぬ!そんなことあるわけないだろう!」、と驚いたが、一時期「Railsガールズ」的な活動もいくつも立ち上がったと思うし、入社してくれた人もスクール生は女性がほとんどだったと言っていたので、一部そういうイメージがあるのかもしれない。

最近は私の持っているプロダクトが久々に作り直しになりRails3からRails7にリプレースしたいなと思っているのだが、Railsはバージョンが上がるたびにそれまでのアーキテクチャを捨てて、ガラッと変更を加えてくる、ものすごくアグレッシブなフレームワークだと思う。Rails7ではついにデフォルトでJavaScriptバンドルを選ばなくなり、よりRails内で簡潔した、よりシンプルな方向に舵を切った。ただし乗り換えコストが少々かかるけれども。

いずれにしても、さまざまなオープンソースが理想を追求し、新しいバージョンをリリースしてくると我々はどこで新しいバージョンに乗り換えるかを悩むし、新しいバージョンにアクセスするときはどうしても技術情報が少ないから、テクニカルな情報の収集には英語を使えたほうがいい。

ということもあり、このたび英会話スクール(対面)に通うことにした(もう一つの理由としては、今やってるドラマ『新宿野戦病院』の主人公役を小池栄子さんがやっていて岡山弁と英語のバイリンガルでめちゃくちゃカッコいいので、むしろこっちの理由が大きいかもしれない)。

個人的にNHK英会話やテキストでぽつぽつ学習していたものの、それじゃあ間に合わないのでちゃんと習いに行くことに。申し込みの時にまずは自分のレベルを申告しなくれはいけないのだが、そもそも自分のレベルってどれくらいなの?というところから不明。なので、二人の日本人講師と外国人講師と15分ずつ会話して、だいたいのレベル感を見てもらい「まあまあイケそうなので、初心者よりは上のレベルから始めましょう」ということになった。

この時に活きたのが、去年オンライン英会話教室を一ヶ月ほどやった成果だと思う。すぐ辞めた理由は、毎回選べる講師が変わるので自己紹介ばかりしないといけなかったからなのだが、自己紹介というか、ある程度自分のことを言語化できるスキルはどんな会話においても必要で、どんなレッスンでも自分のことをしゃべることから始まる。

そういうことが体験として残っていたことがものすごく役に立ったので、どんなに成長の実感が得られなかった体験でも、やったこと自体はしっかりと身体に残っていて、必要に応じて取り出せる経験になるということを改めて実感した。

一度ステージに上がるとなかなか降りられない

その昔、私はずっと人前でしゃべるのが苦手だった。あがり症で、息を吸うばかりで吐けないので声が上ずる。

20代とか30代でいろんなことが上手くいかないとき、ずっと「人生のステージを上がればそこには同士がおり、いろんなことが楽になるのではないか」と思っていたし、「人生のステージを上がるということは、つまり、より多くの人の前に出ることだ」と信じていた頃があった。信じていたので、そのことに対する努力を厭わなかったから、スピーチを習いに行きそれなりに人前が苦手であることを克服していく過程も楽しかった。

しかし、最近になるともう、自分の成長というのはいつまでも続かないということが分かる(そういうことについては『人生後半の戦略書』という本に詳しく書いてある)。そうなると人前に出るのも億劫になってきた。人前に出る機会が減ると人前でしゃべることへの緊張感が復活してきたので、「本気でこういうことから降りたいなあ」と思うようになった。

しかしこれがなかなかうまくいかない。「もう降りたい」と周囲に言うと、「またまたまた~」と胡麻化されたり、「そういわずもっと頑張ってください」と励まされたりする。

先日も、某団体のOB会長として挨拶をしなければならなかった。が、そもそもOB会長という役も降りたいのだ。しかし、なかなか周囲が許してくれない。

最近はよく思う。ステージに上がるのは名誉なこと、ではなくお調子者が周囲から担ぎ上げられた結果なのではと。

でもまあ、たまにあるでしょう。さっと潔く、すべての表舞台から身を退くことができる人が。そういうのを目指したいなとは思ってます。

もがく力

最近少し話題になっているphaさんの『パーティが終わって中年が始まる』を読んだ。シェアハウスブームの草分け的存在として、多くの若者の共感を得てきた作者が中年になり、「普通の中年になりたくなかった」自分が中年に向き合うことになって思う率直な心情が書き記されている。

個人的には、中年期の老いというものに対して深くうなずく部分もあるが、一方で「分かる分かる」と中年同士で言い合っててもしょうがないかなとも思う。

「体力がなくなってからが勝負」と、よく思う。

「体力がなくなったから終わり」ではないのだ。ここから「元気な老人である」ことを選ぶのか「まったりと生きる」ことを選ぶのか。いくつかの残された選択肢を見つめて、自分の残りの人生をどこに賭けるかを選択していかねばならない。持てるリソースが減るほどに、選択肢が減り、おかげで選ぶ道がはっきりしてくる。

ところでかなり以前、勉強場所についていろいろ模索しているというエントリを書いたが(その時は部屋の床に正座用クッションを置いてやっていた)、今回は勉強机の前面にワイヤーパネルを設置してみた。とにかく、学習環境は延々と模索をしている。なんなら、「学習時間」と「学習環境を模索している時間」と同じくらいとっている。机も二個にしてみたり、一個に戻したり、机の向きを変えてみたり、しょっちゅういろいろ変えている。それぐらいしないと、私はすぐ学習意欲が霧散してしまう人間なのだ。こういうこともまた中年に突入してからの私なりのもがき方の一つなのだ。体の衰えにともなう集中力の低下に、せいぜい抗っている。

6月に読んだ本

少し早いが、6月に読んだ本。

6月はとにかく『ソロモンの偽証』の「第三部 法廷」をひたすら読んでいた。読んでいたというかオーディブルで聴いていた。知っているかたも多いと思うが、『ソロモンの偽証』は全三部作、舞台が中学で、教師・生徒・親など多くの関係者が登場する。その登場人物の声色を声優の羽飼まりさんが巧みに使い分けていたのに感心をした。長編なので最初と最後で同じ人物の声色が変わってしまってはいけない。どうやってその声質を維持できるのだろう。私だったらどうするか。たとえば一人ひとりの登場人物のイメージ写真を用意し、その特徴を何か本人に分かる形でメモして、そのメモを見ながら…。いや、声優さんだからスイッチのように切り替えられるのだろうか。たくさんのタイトルを擁するオーディブルでも、そんなに細かく使い分けができる人はそう多くないと思うので、そのあたりひたすら心で拍手しながら聴いていた。

その他、トピックとしては6月は『日経WOMAN』の別冊を特に、勉強を中心とした暮らしにスポットを当てたものを買った。さまざまな人の学習法や学習環境について取材しているが、特に私の年齢から上の人の学習に興味がある。年齢は関係ないとはいえ、自然、周囲にも勉強し続ける人が減ってくるので、たまにこういう雑誌を買って刺激を受けることが必要なのだ。

少し気ぜわしい日々を送っていたのだが、少し生活も落ち着きを取り戻すはずなので来月は技術書を中心に読み進められたらと思う。

他人の成長の不意打ち

管理職として人を指導した期間が長くなってきたり、人を教える職業を長くしてきたりすると、人の成長について見積ることが正確になってくるとも言えるが、たまに予想を裏切って成長する人が出てきたときに不意打ちを食らうこともあるのではないか。不意打ちまでいかなくても、ハッとさせられたり、あせらされたりすることもあるのではないか。

私はテニススクールに通っていて、今、同じレベルに三年半ほど在籍しているのだが、そろそろ上のクラスに上がりたいとずっと思っていた。友達にも「ゆかりさんはいつ上がってもおかしくないよね」と言われつつあったし、自分でも試合に出た時の勝率がよくなってきたりと成長を実感してきたのだが、コーチの認定がないと上のクラスに上がれない。それでコーチに「どうしたら上がれますか?」と訊くと「ゆかりさんは今上がると腕を傷めるから」というような返事が返ってきたこともあった。それならば、スピンにスピンで返すと腕の衝撃が大きいのでスライス(逆回転)を打てるようになればいいのだなと思い、スライスを三ヶ月ぐらいかけてマスターした。新しいフォームを学ぶのはスポーツにおいては結構難しいと思うのだが、一人でコツコツ練習したり、プライベートレッスンを受けたりしてずいぶんと頑張った。

しかしながら、スライスをマスターしてもなかなかコーチの認定が得られない日々が続いた。だが転機は訪れた。私以外は全員私より上のレベルというスクール内のテニス大会に出て、いろいろラッキーが重なって私が優勝してしまったのだ。さすがのコーチも、こうなれば私を上のクラスに上げざるを得ないということで来期からクラスをレベルアップしてもらうことになった。

本当に嬉しい。がしかし、あのスクール内の大会に出ていなかったら私はコーチにどうやって正しく自分の成長を伝えられることができただろうかと思うと複雑な気持ちにもなる。「日頃から上に上がりたいことをアピールし、成長を伝えるチャンスをつかむ」のも大事なのかもしれない。

また違う話になるが、私のところに定期的にいろんな相談をしにくる同業の、立場も私と似たように事業を継がれたかたがいるのだが、そのかたがある時ひどく落ち込んでいたことを告白してきた。何があったのかと訊いてみると、そのかたは「自分がさほどでもないと思っていた部下がこつこつと一人努力を続けた結果、自分が想定しているよりもはるかにできる人材になっていた」ことにショックを受けたようなのだ。

普通であれば部下の成長は喜ぶところであるが、自分がさほど評価していない人が思いがけず成長していることに脅威を感じたのかもしれないし、評価を見誤ったことで落ち込みを感じたのかもしれない。

こういった話を総合してみるに、人は人の成長を正しく見極められるとは限らないし、必ずしも他人の成長を賞賛できるとも限らない。もっと悪い事態(成長を否定したり、嫉妬からキャリアを潰そうとするかもしれない)を引き起こすこともあるかもしれない。

「成長」をどのようにキャリアアップや現状打破に繋げられるかは、それはそれでまた別のスキルとして考える必要がある。