野菜を干す

最近は休日はたいがい野菜を干している。きっかけは『家事か地獄か』という本の作者さんが糠漬けや干し野菜を楽しんでいて私もやりたくなったからだ。

しかし、本格的な何段にもなっている干し網などを買っても私のことだからすぐ飽きてしまうかもしれない。ここは慎重に、無印良品の竹ざるを2枚買ってきてスモールスタートすることにした。

お隣からもらったゴーヤ、見切り品のピーマン、など、野菜があればいそいそと刻んで竹ざるに載せ、天日干しする。干し野菜のサイトなどを見ると等間隔にきれいに並べていたりするが、そんなに丁寧なことはしなくても良い。ガサッと竹ざるに載せるだけだ。

この暑さである。だいたいうちのベランダに陽が当たっている朝の8時から15時ぐらいの間だけ干す。夜まで出しっぱなしにすると湿ってカビが生えたりするらしいので取り込むのを忘れないようにしないといけない。

野菜を刻むのは全然好きじゃないが、干し野菜が作れると思うと割といそいそと野菜を刻むことができる。イヤホンでオーディブルの小説を聴きながらひたすら野菜を刻むのは、かなり楽しい。家事が楽しいだなんて、滅多と味わえる感情じゃないよなあと思ったりして、ちょっとほくそ笑む。

暑い暑い、と嘆くこともある私だが、この無料の、太陽光というものすごいエネルギーを活用できると思うと、暑いことがなんだか嬉しくもある。

最近よくやってるChatGPTの使い方

以前にも書いたが、ChatGPTを使うようになって一番最初に良い使い方だと思ったのは「正規表現を読む・書く」だった。もう、面倒な正規表現のルールを頭に入れなくていいし、他の人が書いたどう解読していいか分からない正規表現に取り組まなくてもいいんだ、と思った。

次に気に入って使っていたのが、電子工作の課題を出してもらったり、どう回路を繋げばいいかを教えてもらうことだった。電子工作関係の本に載っているサンプルは微妙に自分の置かれている環境と違う環境で実行していたものが載っているので、いっそ、自分の使っているOSと持っている電子部品を列挙して、これで何か適当な課題を出してくれと頼むといろいろ提案してくれるのがとても良かった。

最近は英会話を習っている関係で、英語の文法書などを読むこともあるのだが、特に今読んでいていいと思う文法解説書は大西泰斗さんの本だ。大西泰斗さんと言えばNHKラジオ英会話の講師などもしていて「ハートで理解する」というのを大事にしている。そういうこともあり、通り一遍の英訳ではなく、もっとネイティブの人が聞いてしっくりくる英語表現なども知りたくなっている。たとえば簡単な例だと「I like to stay helthy.」 と 「I will stay helthy.」のどちらの表現が良いかと訊いたら、シーン毎にこういう使い方が良いですよ、と違いを説明してくれる。ふむふむ。大西さんの本に書かれているのと同じニュアンスの違いを教えてくれるなあ、などと理解が深まる。英会話学習に最適じゃん、と嬉しくなる。←New

要は今の私にとってのAIは自分がやりたい学習をブーストするときに使うものだ。

逆に何かクリエイティブなことに使うというのはあまりしっくりこない。凡庸で平坦な、躍動感に欠けるアウトプットが出てくるイメージ。

私は学習することがライフワークみたいなところがあるので、AIの使い方はどうしてもそこにスポットが当たる。そういう、個々人のやりたいことのイメージがしっかりないと、逆にAIは使いどころが分からないものになっていたりするんじゃなかろうか。

7月の読書振り返り

朝も昼も夜も暑いため、なんだか一日一日に区切りがない気がして、月の替わり目も知らないうちに迎えてしまった気がするが8月になった。

7月の読書は9冊。なんとなく月に10冊が良いペースだなと思っているので、今月もそのあたりに落ち着いた。

この中で一冊良かったものを挙げるとすれば稲垣えみ子さんの『家事か地獄か 最後まですっくと生き抜く唯一の選択』だろうか。稲垣えみ子さんはアフロヘアで有名な元新聞記者のかたであるが、50代で会社を辞めるにあたり、住まいも家賃を下げるために古い4畳半のアパートに移り、そのためほとんど物が置けないので家電を全部手放したとのこと。その体験談を書いた本だ。

断捨離とかミニマリストという言葉でくくってしまうとただの片づけ本になってしまうのだが、実際にはちょっと違う。物をぐんと減らすことでどんな風に快適になり、どんな風に将来への不安が消えていったのか、ということにスポットが当たっている内容だ。

特に「なるほど」と思ったのは「人生の可能性を広げない」という章である。稲垣さんは「これまで可能性を追求することに気を取られていた。可能性を追求するということは、いまここにある幸せに目を向けていないことだ」というのである。

「何か買うと人生が豊かになったり便利になったりするのではないか」と思って、人は物を買うことがある。が、実際には、買っては、また、次の豊かや便利の可能性を探し始め、一向にゴールが見えない。これが人の不幸の原因の一つだとはっとする。

「便利をやめる」という章も良かった。洗濯機は人がすべき洗濯を楽にするものだという思い込みがあるが、その考えが、洗濯を「まとめてやろう」という気持ちにつながり、結果、洗濯がとても大きな作業になってしまう。家電はその「便利」さゆえに家事の単位を大きくしてしまう。

食事も「美味しいもの、美味しいもの」と追い求めず、一汁一菜をささっと作り、使って済んだものをササッと洗う。そうすれば食器洗いは5分ほどで済む家事なのに、食器洗い機を回そうと思うと「ある程度は洗う食器の数が溜まらないと電気代がもったいないな」と思ってしまい、結局は食器洗いが大きな単位の家事になってしまう。

こうした稲垣さんの経験から紡がれる言葉たちに「なるほど」と膝を打つ思いであった。

実際には家族がいたり、仕事の都合があったりして、そう簡単にはいかないにしても、たまに「今日は食器を手で洗うかなあ」とか、物を買うときに少し立ち止まってみたりすることは、なかなか人生を豊かに楽しくすることのようで、読みながらわくわくしてくるのだった。

蝉が怖い

以前より「みんチャレ」というアプリが大変良いという話を書いている。なかでもガーデニングの習慣がついたのはとても良かった。ガーデニング歴は今の家に引っ越してからだから15年ぐらいなのだが、夏の暑さ、冬の寒さ、虫の発生、茂りまくる雑草、芝の手入れの困難さ、などから庭の手入れは私にとってどちらかというとつらいものであった。

だが、今年に入って芝を人工芝に変えたことが大きな転機になった。天然芝のときは、夏は隙間から雑草が生えまくり、冬は茶色く枯れて、とにかく綺麗な芝の維持は困難を極めていた。ディズニーランドの芝が綺麗なのは毎日スタッフが張り替えているからだ。

意を決して地中に防草シートを張り、地面を人工芝にしたところこれがとても快適で、庭に出るのが楽しくなった。「天然芝が良い」という人は多い。人工芝は暑いよ、と。しかし、安易にそういう人は自分では芝の手入れをしたことがないのではないかと疑っている。

今は毎朝庭に出る。草むしりが面倒だったり、雨で水やり不要だったりで何もしない日もあるが、とにかく朝は外に出る。これが継続の秘訣だ。

それは良かったのだが、ここに来て蝉に悩まされている。我が家には少し大きめの木として「ハートオブゴールド」「ヤマボウシ」「シマトネリコ」が植わっているのだが、6月ぐらいにシマトネリコに大量の蝉の抜け殻がつくようになった。

さらに、しばらくして今である。蝉がわんわんと鳴いている。それはいいのだが、うっかり木に近寄ろうものなら、ギャッと鳴き声をあげて蝉がおしっこをしながら飛び立ったり、地面に落ちている死んだ蝉を触ろうとしたら急にギャーーーーーッと鳴いて飛んでいったりする(いわゆる蝉爆弾)。

これも昨年までの手抜きガーデニングでは気づかなかったのだが、蝉は木だけではなく家の外壁にとまろうとする者も多く、数匹が家の周りを飛び交っていたりするし、昨日などは出勤しようとしたら飛び立った蝉が顔にぶつかってきた。

「蝉害」。そんな言葉はこの世にはないんだろうか。

私は今は、庭に出るときに、ボーッとして木に近寄らないようとても慎重になっている。

なんなら、蝉が支配しているぐらいの庭になっている。

話を膨らませる技術

英会話を習い始めたということもあり、週末は語学学習の本を読んでいた。

読んだのは

  • 『やっぱり英語をやりたい!』著者:鳥飼玖美子
  • 『総理通訳の外国語勉強法』著者:中川浩一

の2冊だ。『総理通訳の外国語勉強法』はアラビア語の通訳をされていたかたの本なので、語学学習といっても英語とは限らないのだが、これらの本を読んで分かるのは語学には「話を膨らませる技術」が必要だということ。いや。これは語学でなくてコミュニケーションの問題なのだ。

例文が一往復の会話で終わっている場合、そこからどう内容を展開させていくか。たとえば、趣味の会話であれば「私は趣味はテニスです」と言った後、テニスはするのが好きなのか観戦が好きなのか、するのはどれくらいの頻度でやっているのか、観戦が好きならどの選手が好きなのか、テニスをするなら試合などは出たことがあるのか、テニスが好きならば他のスポーツはどうなのか、あるいはそれ以外に趣味はあるのか。 みたいなことを英会話のレッスンの前に事前に日本語で準備しておく必要がある。

これはよく言われることだが、英会話が苦手な人はそもそも日本語での会話が苦手な可能性が高いのではないか、というのはこういうことだ。日本人は自分のことを見ず知らずの人に詳細に語るのが苦手なので、準備不足から会話が途切れてしまうことが多そうだ。

ところで私のところには仕事で営業訪問してくる人が多い。いわゆる営業職を専門としている人が来る場合、私もそのトークから営業の極意を知りたいと思ったりもする。ただし、参考にならないことも多い。営業訪問してくる人はまず会社のホームページを見て、それから私のブログを読んでくることが多い。大概は「ブログを拝見させていただきました。社長はテニスが好きなんですね」とか「多趣味ですね」などと言ってくださることが多い。しかし、それはあまり良い営業トークではないなと思う。

「社長のブログを拝見させていただきましたが、社長はテニスが好きなんですね」という会話だけでは凡庸過ぎるのだ。ブログを読んでから営業をかけてくる人の10人に8人は同じ台詞を言うからだ。「どうです?ちゃんとブログを読んで御社の研究をしていますよ」というアピールにすらならない。

最終的には、その人が自分のことを自分の言葉で語る技術を持っていてこそ、私はその営業の人の話を聞こうという気持ちになる。

『総理通訳の外国語勉強法』では、「自己発信ノート」という自分が発信する内容を書き留めたノートを作ることを勧めている。中川氏の学習法はインプットとアウトプットを5割ずつにすることを勧めているのだが、それはインプット一方では会話はうまくならないという自身の経験を踏まえてのことなのだ。

語学学習に限らず、人との関係のフックを作るには会話の準備・ストックは要るよなあ、と改めて英会話の準備をしながら思うのであった。

やったことは身体に残っている

今年に入って、ITスクールでRailsの学習をされていた女性が中途入社してくれた。

その後、会社の全体研修の後の懇親会で「Rails on Rails(フレームワーク)」をまったくたしなまない社の人(男性)から「Railsって女の子がやるものでしょ」発言があったようで、「なぬ?聞き捨てならぬ!そんなことあるわけないだろう!」、と驚いたが、一時期「Railsガールズ」的な活動もいくつも立ち上がったと思うし、入社してくれた人もスクール生は女性がほとんどだったと言っていたので、一部そういうイメージがあるのかもしれない。

最近は私の持っているプロダクトが久々に作り直しになりRails3からRails7にリプレースしたいなと思っているのだが、Railsはバージョンが上がるたびにそれまでのアーキテクチャを捨てて、ガラッと変更を加えてくる、ものすごくアグレッシブなフレームワークだと思う。Rails7ではついにデフォルトでJavaScriptバンドルを選ばなくなり、よりRails内で簡潔した、よりシンプルな方向に舵を切った。ただし乗り換えコストが少々かかるけれども。

いずれにしても、さまざまなオープンソースが理想を追求し、新しいバージョンをリリースしてくると我々はどこで新しいバージョンに乗り換えるかを悩むし、新しいバージョンにアクセスするときはどうしても技術情報が少ないから、テクニカルな情報の収集には英語を使えたほうがいい。

ということもあり、このたび英会話スクール(対面)に通うことにした(もう一つの理由としては、今やってるドラマ『新宿野戦病院』の主人公役を小池栄子さんがやっていて岡山弁と英語のバイリンガルでめちゃくちゃカッコいいので、むしろこっちの理由が大きいかもしれない)。

個人的にNHK英会話やテキストでぽつぽつ学習していたものの、それじゃあ間に合わないのでちゃんと習いに行くことに。申し込みの時にまずは自分のレベルを申告しなくれはいけないのだが、そもそも自分のレベルってどれくらいなの?というところから不明。なので、二人の日本人講師と外国人講師と15分ずつ会話して、だいたいのレベル感を見てもらい「まあまあイケそうなので、初心者よりは上のレベルから始めましょう」ということになった。

この時に活きたのが、去年オンライン英会話教室を一ヶ月ほどやった成果だと思う。すぐ辞めた理由は、毎回選べる講師が変わるので自己紹介ばかりしないといけなかったからなのだが、自己紹介というか、ある程度自分のことを言語化できるスキルはどんな会話においても必要で、どんなレッスンでも自分のことをしゃべることから始まる。

そういうことが体験として残っていたことがものすごく役に立ったので、どんなに成長の実感が得られなかった体験でも、やったこと自体はしっかりと身体に残っていて、必要に応じて取り出せる経験になるということを改めて実感した。

一度ステージに上がるとなかなか降りられない

その昔、私はずっと人前でしゃべるのが苦手だった。あがり症で、息を吸うばかりで吐けないので声が上ずる。

20代とか30代でいろんなことが上手くいかないとき、ずっと「人生のステージを上がればそこには同士がおり、いろんなことが楽になるのではないか」と思っていたし、「人生のステージを上がるということは、つまり、より多くの人の前に出ることだ」と信じていた頃があった。信じていたので、そのことに対する努力を厭わなかったから、スピーチを習いに行きそれなりに人前が苦手であることを克服していく過程も楽しかった。

しかし、最近になるともう、自分の成長というのはいつまでも続かないということが分かる(そういうことについては『人生後半の戦略書』という本に詳しく書いてある)。そうなると人前に出るのも億劫になってきた。人前に出る機会が減ると人前でしゃべることへの緊張感が復活してきたので、「本気でこういうことから降りたいなあ」と思うようになった。

しかしこれがなかなかうまくいかない。「もう降りたい」と周囲に言うと、「またまたまた~」と胡麻化されたり、「そういわずもっと頑張ってください」と励まされたりする。

先日も、某団体のOB会長として挨拶をしなければならなかった。が、そもそもOB会長という役も降りたいのだ。しかし、なかなか周囲が許してくれない。

最近はよく思う。ステージに上がるのは名誉なこと、ではなくお調子者が周囲から担ぎ上げられた結果なのではと。

でもまあ、たまにあるでしょう。さっと潔く、すべての表舞台から身を退くことができる人が。そういうのを目指したいなとは思ってます。