リンゴと寄付

今朝は「選択」ということについて考えていた。

私はよく、若い経営者の人などから「こういう時はどちらを選択したらいいですか」というような質問を受ける。たとえば、「値段が高いけれど小さいリンゴと、値段が安いけれど大きいリンゴ、どちらを買うべきですか?」といった具合だ。もちろん仕事の話なので、実際にはもっとシビアな内容だったりするのだけれど。

そういう時、私はだいたいこう答えることにしている。「選択肢が二つしかないから迷うんだよ。普段から選択肢は増やしておいたほうがいいよ」と。私自身も、おおむねその考えを信じながら生きている。

たとえば、高いリンゴと安いリンゴのほかに、「超高級だけれどビタミンが豊富で、食べるととても幸福を感じるミカン」みたいなものも、普段から選択肢として視野に入れておく。

値段が高い・安いという軸だけではなく、もっと自分が感じる価値に近いものが選択肢の中にあるといい。そして「値段は高いけれど、私は今ここにお金をかけることが本当に大事なんだ」と、人から問われた時に答えられるような選択ができれば、多くの人が「高い」か「安い」かの軸だけで物事を決めやすい中で、別の価値を信じられていることがとても強いと思う。

自分で自分の選択を強く信じられるから、後悔がないのだ。

今朝は、そういう「選択肢の作り方」について考えながら出勤した。

最近はもうひとつ、「好きな人には人はお金をたくさん払いたくなる」ということについてもよく考えている。

極端な例で言えば、推しや贔屓に無尽蔵にお金を注ぎ込んでしまう人の存在などがそうだ。

今は景気がかなり悪いという話を、身近でもよく耳にする。これからもっと悪くなりそうだ、ということも。そういう中で、お金をうまく使ったり、あえて使わなかったりすることの意味を考えると、やはり「存続してほしい場所にはお金を使う」という感覚を覚えておくことは大事なのだと思う。

最近、少額だが毎月定期でクレジットカードから引き落としされる寄付を始めた。最近はそういう寄付がとてもやりやすくなっていて、金額や寄付の間隔などをフォームで選んで登録するだけでよい。私のところにはいろんな人や団体からスポンサー依頼が来ることが多いが、今回は特に私が心を打たれたNPOを選んでみた。毎月引き落としを選択したことで、私はなぜそこを選んだのかを定期的に思い出せる。それはとても大事なことだと思った。

とりとめがないけれど、最近よく考えていることを書いてみた。二つの話は違う話のようで、繋がっているように思ったので。

ご報告

こんにちは。

私事ではございますが、このたび岡山大学大学院経営学部で学ぶことになりました。4月より学生になります。半年ぐらい準備を進めておりましたが、合格通知を受け取りようやく皆さまにご報告できる運びとなりました。

きっかけは、2022年~2023年に手掛けた会社のブランディングが「会社にとっても周囲にとっても良い出来事になった」という手ごたえを感じたことです。いつかこの経験を基に地域のブランディングについてきちんとした論文を書いてみたいと思うようになりました。

とはいえ、通学して単位を取得していかなければならないので、時間的・体力的な不安があって迷っていたのも事実です(今でも夜中に、「体力大丈夫か?!」と急に不安になることもあります)。この歳になると「せめて10年前に挑戦していれば」と思うことも多々あるのですが、同じように10年後だって悔やむことは多いと思います。でも「今だから」踏み切れたんだと思うので、機が熟したとも言えるんでしょうね。

私の周囲には割と多くの大人になって進学・研究にチャレンジされるかたがおられるため、そのかたがたの後を追うように今回の決断をすることができました。が、そういう環境におられない方には「すごい決断をしたね」と驚かれることがあります。でも、そんなに身構えなくとも、今は学びたいこと・研究したいことがある人がたくさんのやり方が選択できるようになりました。本当に素晴らしい時代です。

今、合格して少しばかり脱力しておりますが、同時に志が遂げられるよう頑張ろうとも思っています。今後、何らかの形で研究の成果をお伝えすることができれば幸いです。

2月の出張は雨

昨日今日と出張で横浜。

出発の日は土砂降り。このところずっと雨が降っておらずむしろ水不足が心配されていたぐらいだからむしろ喜ぶべきことなんだろうけど。2月は個人的にいろいろあって疲れ気味のところにザーザーと降る雨に少し心折れて「出張の日に限って雨なんて…」とポソッとつぶやいたら夫が、「日頃の行いが悪いせいじゃない~?」と多分、軽口のつもりで、多分!和ませようとして言ったんだと思うんだが、完全に逆効果というか、家庭内の天気まで荒れてしまった。出張中の夫の弁当の作り置きまでした私の行いがー。悪いんですかー。

夫の言葉のチョイスがいつものように盛大に間違っただけだと思うんだが。

悲しくて朝っぱらから涙ぐんでしまった。

そんな悪天候からの出発だが、新幹線乗り場で可愛い「岡山県アクリルキーホルダー」のガチャを見つけて回して機嫌を直すことができた。

これね。実は

なんだか素敵な取り組みっぽくて。障がい者雇用の拡大を目指す「JR西日本あいウィル」というところが地域の福祉事業所の商品を販売することで障がい者雇用の拡大を目指している活動の中で作られた商品のひとつらしい。↓↓詳しくはインスタを見てね。みんなもJR西日本で移動したときはいろんな駅に設置してあるガチャガチャを探して欲しいな。

https://www.instagram.com/sankakushirushi?igsh=aTBtazkyYmp2aHoz

うカレー(久しぶりの夫料理報告)

昨年、7月に70歳の誕生日月をきっかけに仕事をリタイアした夫であるが、けっきょく今年になって1月から週4日働いている。自宅ではときどきC言語の本も読んだりしている。今のところ、週3回はジムに走りに行き、週3回はクライミングジムに行っているので、体もまあまあ元気だ。いや、まあまあ、じゃなくて「かなり元気」か。

働いてくれるのは社会との接点という意味でもありがたいのだが、家事負担が若干こちらに戻ってきたのはいたしかたない。

さて、私は先週とある試験を受けることにしていたので、夫がスーパーのレシピカードで見つけてきた「合格祈願! うずら入りカレー『うカレー』」という願掛けメニューを作ってくれた。うずら卵は私は大好きな食材なので、とても嬉しい。結果発表はまだ先だが、カレーのご利益がありますように。

ちなみにこのスーパーのレシピカードを時々もらってきては献立を決めていた夫なのだが、レシピカードのサービスは今月いっぱいで終了ぽいので残念だ。

始めるときはサッサと始めるし、やめる時もサッサと辞める

会社の顧問税理士さんに「社長は気が多いねえ」といつも笑われる。しょっちゅう感化されて、新しい趣味を始めてしまうからだ。新しい趣味を始めるにあたり大事なのは、やめようと思ったらサッサとやめることだ。そうしないと最初は楽しく始めたのに、それが徐々に苦痛になってしまう。趣味をやめる時に大事なのは、やめる上での自分なりの正当な理由を決めて自分を納得させることだ。

たとえば、一時期将棋をやっていて公民館にも通っていたのだが、やめてしまった。なぜやめたのかと言えば公民館のおじいちゃんから「冠婚葬祭以外は絶対にやめずに(将棋をしに)来い」と言われたからだ。そ、そ、そんなん、言われたくないわー。と思ったのでやめた。仕事じゃないんだから趣味ぐらい好きにさせて欲しい。

で、今年に入ってずっと気になって作りたいと思っていたのが「ガチャ詰めポーチ」だ。ガチャガチャで出したものをテイストを合わせてクリアなポーチに入れるやつ、ね。ほんと、人がやってるのを見るとすぐにやりたくなっちゃうんだから。

それから韓国語も勉強しようと思っていて、だから、韓国テイストのガチャ詰めポーチを作った。韓国のお菓子や料理のガチャガチャ。それから韓国系アメリカ人のデザインしたエスターバニーっていうキャラクターをクレーンゲームで取ったので、詰めてみた。韓国語の勉強をするときは、これを取り出して机の上に置いてやっている。

ちなみに韓国語はなかなか難しい。中国語を習っていたころは、やはり漢字の存在が大きくてここまで苦労しなかったなあと思う。

タレントの光浦靖子さんがカナダに留学した様子をエッセイに書いた本を読んだが、英会話がまったく上達しない苦悩を「ツルツルした壁に登ろうとしているみたい」と書かれていたが、まさにそんな感じ。記号の組み合わせにしか見えないハングル文字がどうしても脳みそに定着してくれない。でもまあ、いいんだよ。そんなに急いで習得するつもりもないし、またやめてしまうかもしれないから。と思いながらのんびりやっているのだ。

あ。でもテニスはずっとやってまーす。体が続く限り!

『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』感想

年末年始に『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』という本を読んだ。

前回のエントリにも関連するが、私は昨年、「来年はもう少し技術書を読もう」と思った。この本はエンジニアリングそのものに関する本ではなく、アカデミックな文章についての話である。だが、こうして原点に立ち返り、「そもそも論文を書くとはどういうことか?」を問い直す本はとても良い。

多くの人は、物事をふわっと理解したまま書き始めてしまい、その結果として挫折するのだと思う。

本書は「アカデミック・ライティング」についての本であるが、「アカデミック・リーディング」にもきちんとページが割かれている点がとても良い。そもそも論として、本書では「書けない人は、実はきちんと読めてもいない」ということが指摘されている。

さらに、「よくよく考えると恐ろしいことは、ふだん自分の読解力というものを客観的に測定する機会はほとんどないという事実である」という一文が印象に残った。

これは、人は脳の使い方を正式に学ばずに育ち、だから本当は脳の使い方をよく知らない、という話ととても近い。

そもそも、技術書なりアカデミックな文章なり、皆さんはどうやって読んでいるのだろうか。読書技術系の本を何冊か読んできたが、結局のところ、それらは「その人が自分の脳に合った手法を編み出して披露している」にすぎないように思う。それを他人がそのまま真似しようとしても、うまくいくはずがない。

ちなみに、私はこの本を三段階に分けて読んだ。

① まずは全体をスキャンするイメージで、さらっと読む。 ② 章ごとにA4の紙一枚に概略をまとめる。 ③ あとで急いで読み返せるよう、B6横ノート半頁程度を目安に、さらに章ごとの概略を数行に落とし込む。

あとで②は不要になるので捨ててしまう。必要な箇所を参照したくなったら③を確認し、必要に応じて①に戻る、という読み方だ。

話が少し逸れたが、この本は、人文学者である著者が自身の体験を基に、「正しい論文のフォーマットが分かれば、論文は比較的簡単に書けるようになる」という考えに辿り着き、「では、正しい論文のフォーマットとは何か?」をテーマに、その答えを分かりやすく整理した一冊である。

本書全体が、まるで一本の論文そのものをなぞるかのような構成で書かれている点も非常に示唆的だ。

また、重要なポイントはボールド体で示されており、その要点部分と各章のまとめを拾い読みするだけでも、本書の主張は十分に理解できるようになっている。

この本は、「論文を書かなければならない人」のためだけの本ではないと思う。技術書が読めない、文章が頭に入ってこない、自分は理解力が低いのではないか、そう感じたことがある人にこそ、一度立ち止まって読んでほしい本だ。

「書けないのは能力の問題ではなく、フォーマットを知らないだけかもしれない」、そして、「読めていないのは努力不足ではなく、読み方を学んでこなかっただけかもしれない」。

そう気づかせてくれる点で、本書はとても静かで、しかし強力な一冊だった。

それでも、書く人がいる

先日、「AIのせいで、人が技術ブログを書かなくなり、その結果、AIの学習データが減っていくのではないか」という内容のブログを読んだ。それを読んで、確かに薄々感じていたことだなと改めて思った一方で、だからといって未来が悪くなるかというと、どうもそうは思えないのだ。

ブログが書かれなくなっているのは、技術ブログに限った話ではない。社長ブログはどうだろう。ここにきて、いくつか社長ブログを探してみたが、更新が途絶えているもの、一年に2、3記事しか更新されないもの、あるいはSNSの投稿が自動的にまとめられて載っているだけのものなども多い。

ちなみに、もし社長ブログが減っているとすれば、コンプライアンスへの意識が高まったことも一因なのではないかと思う。社長の言葉が、もはや「個人の考え」として受け取られにくくなった今、気軽に書くこと自体が難しくなっていると私自身も日々感じている。

まあ、それはともかくとして。技術ブログが減っていくのは、やはり少し寂しい。

これまであまり書いてこなかったが、技術ブログというものも書いてみようかな、と、新年にエンジニアたちとしゃべっているときに言ってみた。 すると「それはいいんじゃないか」という流れになった。その場の勢いもあって「じゃあ書こうかなあ」と思ったのだが、帰宅して冷静に考えてみると、私のように「エンジニアリング」が仕事のほんの一部でしかない人間が書くより、そこに集まっていた「エンジニアリングが体の真ん中にある君ら」が書いたほうがいいんじゃないかな、と思ったりもした。きっと、私よりはるかに良い記事が書けるだろうに、などとも思った。

とはいえ、そんな会話もあったので、今年は少しだけ社長ブログに技術寄りの記事が出てくるかもしれない(出てこないかもしれない)。

直近では、一昨年から昨年にかけて、Rails 3 から 7 へと上げるシステムリプレース案件を抱えて、死ぬほど苦労したあとは、あまり技術的な活動もしていない。正直、何か書けるとも思えないが、「弱いエンジニア」としての何かなら、書けるかもしれない。

冒頭の話に戻るならば、AIにとって価値があるのは、完成された正解だけではない。試行錯誤の途中や、うまくいかなかった判断、回り道の記録もまた、貴重な学習データだ。「弱いエンジニア」が書くものは、そういう途中経過ばかりかもしれない。だが、そういうものこそ、人にとってもAIにとっても、案外役に立つのではないかと思っている。

なお補足しておくと、AIは「自己教師あり学習」や「モデル蒸留」といった仕組みによって自己補完的に知識を広げていく手法も活用するため、学習データの枯渇を過度に心配する必要はない、という見方もあるようだ。