映画『怪物』

久しぶりに映画を観た。

選んだのは是枝裕和監督の『怪物』だ。予備知識はほぼゼロだった。予告映像で安藤サクラ演じる母親が教師たちに詰め寄るシーンがあったので、いじめにあった子の母が暴走していく映画かもと少し思った。また、是枝監督は、社会問題、特に子どもに関係する社会問題を取り上げた映画を作っているので、何かまた重いテーマを突き詰められるだろう、そういう時に心が耐えられるだろうかと思いつつ、出かけた。

結果、「脚本×監督×子役」が起こす奇跡を見た。

以下はネタバレというほどでもないけれど、「これから観るので予備知識は入れたくない人」は読まないほうがいいかも。

脚本は、これまでにも素晴らしいドラマの脚本を書かれている坂元裕二さん。『怪物』はカンヌ映画祭で脚本賞を受賞したのもうなずける。詳しくは書けない。が、よくある「最後の最後にどんでん返しがあるのでネタバレ禁止」というような映画ではなく、もっと早い段階から観客は「あれ?」と思い始める。正しく見えていたはずだったのに、次に見る時には別の景色になっている。さらに、もう一度見るとまた違う景色になっている。そのたびに私たちは浅はかな決めつけを恥じる。

安藤サクラ演ずる麦野早織は湊という小学五年生を持つシングルマザーだ。学校でのいじめを疑うような事柄が次々起こり、早織は学校に乗り込む。早織の一連の行動は、シングルマザーだからという以前に、子を持つ親として私は普通に共感する。早織と同じように学校に対して腹も立ち、焦りも感じる。何かシングルマザーのせいで見落としたことはないのか。自分の接し方に間違ったところはなかったか。自問自答しながらも、子に対し常に明るく励ますように接し、時にはおどけてみせる。それは子を持つ母の多くがそうやって何とか子育てを全うしようとするからだ。いや。母親だけでなく父親もそうだろう。そこに不自然なことは何もない。だからこそ、母親の目線の先にある学校が化け物のように立ちはだかる。母親は死に物狂いでその化け物に立ち向かう。

是枝監督は、子役の魅せ方がいつもながら上手い。この映画には、「麦野湊」と「星川依里」という二人の同級生の子供が出てくる。依里を演じた子を、私はこれまでドラマで何度か見てきたが、映画鑑賞中は依里を演じた柊木陽太くんが、ついこの前もドラマで見かけた子だとは気づかなかった。子役が台詞ではなくて内面で演じられるように導いているからだろう。依里は私が以前にドラマで見た柊木陽太くんとは年齢も性格もまるで違う子だった。

途中で湊が早織が運転する車の助手席から飛び出してしまうシーンがある。あとから思えば、台詞で感情を説明するのは嘘になってしまう、あのシーンであんな風に車から転がり出ることでしか表現できない感情があった。

それは母親からしたらなんて苦しくて切ない行動だろう。我が子が追い詰められた末にとった行動を、誰かのせいにするしかないではないか。

たとえば、学校のせいに。

私も日常でよく失敗する。なぜあの人は私に対してあんな態度をとったのだろう。私は傷つくし、その態度をとった人を時には少し憎んだりもする。しかし、時が立つにつれて、次第にその人の心が見えてくる時がある。「あんな態度」はその人の周囲を思ったときに伝えたい心の表れだった。逆に周囲にさして責任を持つ気持ちがない人のほうが一見すると穏やかな人に見える。そういうことに気付いてから、一連の出来事を思い出し、ふっと、私が見ていたものはまるで別の形を取りうることに気付かされる。

そういうようなことをこの映画は見事に見せてくれた。しかも、そんなに簡単には言葉にできないことを、言葉だけではなくて、景色とか。天候とか。散らばった髪の毛とか。すべてで構成して、「語る」のではなく「浮かび上がらせる」。そんな映画であった。

最後になるが、映画の余韻覚めやらぬ私が自宅で「さかもとさんがね、」と夫に言う時、私は脚本家の坂元裕二さんのことを言い、夫はこの映画の音楽を担当した坂本龍一さんのことだと思っていたために、ちょっと話が嚙み合わないことがいくつかあったのでした。