始末書を「形式的なもの」にしない

昨今、「働き方改革」や「テレワーク推進」によってバックオフィス系の作業が爆発的に増えてきて、特に勤怠管理などは慎重に行わなければならなくなってきた。よって、会社経営が労働基準法に抵触していないか確認するために頻繁に社会労務士さんに連絡を取るようにもなった。

その中で、行動を修正していただく必要がある従業員のかたにどう伝えれば良いかは大変悩むのだが、その都度、社労士さんは「始末書を書いてもらう」ということを提案してくださる。

始末書?なんか、よく刑事ドラマで新米のドジな刑事が書かされているやつ?なんか形式的な感じがするやつ。

と思っていた。

が、社労士さんの口からたびたび「始末書を書いてもらって」という言葉が出てくるので、試しに書いてもらうことにした。

すると、まあ、奥さん、これが意外と良いんですよ。

もともと「常識」というのは実にあいまいな形をしている。たとえば、たびたび遅刻をする人がいるとして、その人がなぜ毎回遅刻をするのかについて、実は本人が遅刻という概念をあいまいに捉えているため、なぜ相手が怒るのかが分からないというようなことが、世の中では多く発生している。

「10時に集まろう」という約束に対して、よく遅刻する人のうちの一部は「だいたい10時ぐらいに行けばいい」と思っているので、「10時5分前も10時5分過ぎもだいたい同じ」ぐらいにしか考えていなかったりする。

「10時に集まろう」と言ったら(日本では)「10時より少し前には到着できるように出発するものだ」という「常識のようなもの」があるが、明確にそのことを認識しないまま大人になっている人は何人もいる。

少し前に初めて中国人のかたを採用したときに、日本で働く心構えを指南してもらおうと思って、知り合いの中国人社長のところに彼を連れて行ったときに、中国人社長は「遅刻をしない」「嘘をつかない」「郷に入っては郷に従え」という三つのことを教えていた。こうやって言語化して伝えてくれる人がいるというのは大事なことだ。

始末書を書いてもらい、それを添削したり、内容について対話したりすることで、個人の中であいまいなままになっている常識的なものが浮き彫りになっていく。当人が「はっ。今までなんで自分が社会生活の中で怒られていたのか分からなかったが、社会の多くの人にとってはこれが常識だったのか」などと気づく瞬間があったりする。それをちゃんと文章に落とし込んでもらことで始末書は完成する。

始末書は「書かせて終わり」にせず、内容について語り合い、会社側と共に完成させるものになればそれはそれで有効なツールになると思う。